とある妖精博士の優雅な日常

2017年7月 6日 (木)

絶対領域をつくろう。

すこし時間が空いちゃいましたね、吉男です。

いやぁ、アイルランド帰省を前にして、
アイルランド語と良き隣人たちの係数を上げていたら日が空いちゃいました。

そんな中、色々考えていることがあって。

いつか自分の場が持ちたいんですよね。
私設図書館というか、フリースペースというか。
そこに行けばおとぎ話や、妖精譚の本が沢山あって、
ゆったりとした時間が流れていて、
そこでは、どんな人の想像力も、子供心も傷つかない絶対の領域。
そういう場所を作っていきたい。そう思っています。

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2017年1月 7日 (土)

カミングアウト、増補。

一夜明け、昨日の記事を読み直すと、重いわ、不思議ちゃんだわ凹みそうですが
みなさま三連休初日、いかがお過ごしですか?
→某有名ブログ風書き出しw

改めて(いう必要もないのですが、それでも)明言しておくと
僕は、神智学などを含む、あらゆる宗教、団体には属しておりません。
無論、否定はしていませんが、賛同もしていません。
僕には確かめようのない世界だな、と思っています。
お役目、天命というものは、あったら良いなぁ、と思うこともあったりしますが
基本的に、あんまり感じていませんし、
そーいう事柄は、自分一人でそっと感じるモノだと思っています。

そして、お話をしたり、野外で踊ったりすることが、
良き隣人たちのためになるかどうかなんて、本当のところは分かりません。

ただ、ヒトはやっぱりこの自然の一部で、
ヒトが作った目盛りだけじゃなく、季節とか月の満ち欠けとかも加味した
大きな流れを意識して生活する方がいい気がしているだけです。
ほら、たまに聞きません? 某かを信仰している集団の方が幸福度が高いって。
それと似たようなモンです。
大層な理屈は分かりません。哲学とか、思想が有るわけじゃありません。
僕は自分が経験したことしか分からないですから。

撒いた種が立派に芽吹きますように! ヒャッハー、種まき踊りだ!
花が咲いたよ、目出度いな、奇麗だな! それそれ酒盛りだ!
夏が来たよ、命がキラキラしてるよ! さぁ書を捨てての山に行こう!
果物がたくさん実ったよ、小麦もお米も! 収穫祭だ〜!
冬が来たよ。巣ごもりだ。みんな大地に還ってゆくよ。僕たちも火を囲もう♪

こういう行事を通じて、自分たちも自然の一員で、
生きている、ではなく生かされている。恵みと大いなる流れに感謝する。
そこに介在するが昔から精霊と呼ばれたりする存在なのかな、と。
良き隣人たちのルーツを辿れば、豊穣をもたらす小さな神様たちに行き着きます。
そこには、教義もなければ、大層な哲学もありません。
けれど自然に畏怖の念を覚え、その恵みに感謝し、次の実りを祈る。
その姿は、とてもシンプルで、とてもヒトの基になっている気がするのです。
見る人によっては、それは情報弱者のように写るかも知れません。
啓蒙すべき野蛮なアニミズムかも知れません。
けれど、そういう弱々しくも生々しい所を僕は最高にヒトらしいと感じます。

僕は、ずっとずっと、彼らと踊っていようと思うのです。

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2017年1月 4日 (水)

明けましておめでとうございます、そして誕生日。

みなさま、あけましておめでとうございます。
今年は穏やかな空合いでの年越しでしたが、みなさはいかがお過ごしですか?

僕は、例年通り、家でのんびりと、
そして3日には(なぜか)日本橋に遊びに行きました。
帰省の人たちでごった返す街をぶらついて、
お目当ての香水を試したり、百貨店を冷やかしたりと、新春の街を満喫しました。

今年も、いつものように、いつも以上に、彼らの代弁者として
ギュンギュン活動していきますので、よろしくお願いします。
今年は『語る』以外にも、彼らを『感じる』活動をしようと思っています。
久しぶりに、野外で集まり、みんなで踊ったりなんてやりたいなと企画してます。
また詳しく決まりましたら、告知しますね〜。

そして、今日は、僕の42回目の誕生日です。
いやぁ、あっと言う間ですね、四十路w

こんな面倒な息子を、放り投げることなく育ててくれた両親。
ありがとうございます。

四十絡みのオヤジのお話を聞いてくれるみなさん。
ありがとうございます。

今まで出会ってきた人たち。
ありがとうございます。

なにより、この世界に、妖精郷が在ること。
そして良き隣人たちがいることに、なにより感謝します。

僕が見ている世界の彼らは、けっして大仰な存在ではありません。
天地創造も、天変地異も、はたまた国の存亡や、人生の大勝負とは無縁です。
毎日通る道で見つけたスミレの花。
アレ? こんなところに? 昨日通ったときには気がつかなかったのに。
そんな細やかなことと、とても似ています。
スピリチュアルな方たちにはガッカリされることも多いかも知れません。
でも、僕は彼らと踊る日々がなによりも大切で愛おしい。
そこに彼らがいる。彼らを呼べる名前がある。それだけで満足なのです。

拗らせつづける僕ですが、どうぞこれからもよろしくお願いします。

1月のお話会はこちら!

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1月14日
妖精譚・問われ語り

水天宮・モリモトハウス

               

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1月14日(土) 16~18:00
席料 2,000円(お茶付き) 
お申し込み、お問い合わせは
tomoko.morimoto☆gmail.com
(☆→@)まで

2016年12月31日 (土)

ありがとうございます!

いよいよ大晦日ですね。
少し早めに仕事納めをさせて貰って、どうにか大掃除も終わりそうです。

今年も本当に色んな所で語らせて貰い、色んな方に出会えました。
語っていなければ出会わなかったであろう人たち。
本当にありがとうございます。

過日の宗教と信仰について。
Facebookなどでも、たくさんの方から反応がありました。

そしてたどり着くのは、
ああ、彼らは小さな神様たちで、確かに天地創造や、
天変地異を防ぐ力、国を守る力はないかもしれない。
けれど、僕たちの日々の細やかな事柄に密接に関係しているんだ、ということ。

妖精学の道を進み、良き隣人たちと、
そして時には、アンシーリーコートと呼ばれる
人にとって都合の悪い隣人たちと付き合っていく中で、
見えてくるのは、人の営みであったり、心の動き。
僕たちは、時に清廉な気持ちになったり、愛に満ちあふれる。
けれど、同時に、憎しみが沸き起こったり、抑えきれない哀しみに溺れそうになる。
決して平らかではなく、変化し、季節や日々の天気、月のカタチにも左右される。
そんな誰にでも訪れる変化の最中に、彼らは立ち現れるのではないだろうか。

一般に、妖精や精霊と呼ばれる存在たちは、
こちらとあちらとの境目に棲んでいると言います。
境界線の入口は、至る所にあります。
それは月の輝く夕暮れ。咲き誇り、散り初めようとしている桜の木の下。
波と風の音だけが満ちている海岸の岩礁。
そして、灯りの届かない部屋の隅や、扉の隙間から漏れる明かりが射し込む隣室。
そこに立ち現れる彼ら。

彼らには大仰な名前はないかもしれない。
上等なチカラとは無縁かも知れない。

けれど、僕たちの心は、それらと密接に関係し、反応し、
また共鳴しているからこそ、時に恐ろしく、なにより愛おしい。

彼らをこちらに呼び込むのは、僕たちの心の有り様。
それは想像(創造)力であり、お話は、その道標。

来年も、少しでも多くの人と妖精郷を旅できることを祈って。

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2016年12月28日 (水)

信仰。

昨日の記事で、信仰とか宗教について触れたので、
その補足めいたものを書こうと思います。

僕は妖精博士、妖精譚の語り部という仕事柄、
時々、ペイガン(もしくはウイッカ)ですか? と聞かれることがあります
(ペイガンには差別的意味合いを含むことがありますのでご注意を)。

確かに、ペイガニズムやウイッカについての資料は読みますし、
名著といわれるものは多くの示唆に富んでいます。

ですが、僕はすべてに魂が宿っていると考えていますが、
ペイガニストでも、ウイッカンでもありません。
どの宗教にも帰依したことはありませんし、これからもないでしょう。

けれど、僕は宗教とはほぼ無縁ですが、信仰心はあります。

無宗教なのに信仰心ってどういうこと? そう思われる方も多いでしょう。

日本は、クリスマスを祝い、初詣に神社に行き、仏前でお葬式を上げるという
世界でもまれに見る宗教観を持った国です。
そういうお国柄だから、宗教と信仰をほぼ同じ意味を指すことが多いのですが、
少なくとも僕は、この2つを厳密に別けて考えています。

信仰心とは、この世界には、人間以上の大いなるナニカがあって、
それに対して畏怖や感謝の念を感じること。

宗教とは、そういう信仰心を、どうすればよりよく表現できるか、
また生きるモデルロールを提示する、いわば方法を伝授すること。

こういう分け方をした上で、僕は信仰心はあるけれど……と発言しています。

でも、その信仰心というのも、それほど格式張ったものではありません。

この時季、お外はとても寒いですよね。
自転車乗りですから、3つ向こう駅とかなら、ヒョイとサドルに跨がるんですが、
手袋をしていてもあっと言う間に冷たくなるし、顔だってピリピリしてきます。
でも、そういう時、不意に植え込みの花が視界に飛び込んでくる。
街路樹の枝が、射す太陽の光が、そして雲の流れが。

そんな時、僕はたまらなく命が輝いて見えたりするのです。
木々や花たちは、生物としては、他の生物と関わり合って生きています。
けれど、個々の生命体としては、決して人間の為に咲いているわけでも、
葉を茂らせ、また落としたりしない。風だって、太陽だってそう。

でも、人は、彼らを見て、触れて、元気になったり、心がほどけたりする。
僕は、そういう時に、ただただ有難いなぁ、素晴らしいなぁと思うのです。
そしてひっそりと咲く路傍の花に頑張れ〜と声を掛けたり、
木々にありがとう〜と囁いたりする。

もちろん、そういう細やか?な想いだけではなくて、
夕闇の中に昇ってきた赤い月に、美しさと同時に恐ろしさを感じたり、
夜にざわめく木々の梢に背筋を凍らせたりもする。
自然災害だってそうだし、飢饉を招く天気もそう。

そういう生き物のヒトにとって厳しい面のある自然(この星)と、
どうにかして彼らと折り合いを付けて生きていかなくてはならない。
僕らはどれだけ科学が進んで万能になった気がしていても、
この星と寄り添って生きていかねばならない。

当たり前すぎて、文字にすることすら気恥ずかしくなるのですが、
すべての事象の背後に流れる命の繋がりを感じるのです。
と同時に、境界線で踊る彼らの姿もまた。

僕が持ち合わせている信仰心はこういうものです。
決まった祈りの言葉はありません。

もしかしたら明月を仰ぎ見ては浮かぶ李白の詩がそうなのかもしれないし、
盛りと咲く桜を見ては口を突く在五中将の歌がそうかもしれません。

美しい、感動した、というのとは少しだけ色味の違う想い。
それはきっと、僕らがまだ闇を駆逐し尽くす前にあった感覚と
よく似ているような気がします。
そんな気持ちが溢れて、言葉というカタチを得たとき。
それこそが、祈りになるのではないか。

土地と共に生き、月の形や季節に寄り添うように
同時に、隣人たちと、真の意味で隣人として生きていた時代の人たちに
僕も続いていきたい。
ただお話を語る人ではなくて、心の底から、彼らと一緒に暮らしていきたい。
そう思っています。

その上で、良き隣人たちを見守る月に、すべてを抱く夜に、祈りを捧げています。

今日も、等しく帳が降り、月のない晦近くの夜が始まります。
夜が、みなさんにとって、濃やかで、柔らかいものになるように。
そして、暗がりの隙間から、彼らがそっとこちら側にやってこられますように。

こんな夜は、アトリエローゼンホルツのマリさんが教えてくれた
junaidaさんの絵とともに。

2016年12月27日 (火)

僕がクリスマスを祝わない理由。

クリスマスが過ぎると、街があっと言う間に年越しモードになりますね。
僕は川崎大師のCMが流れ出すと、いよいよ! と思います。

みなさんは、どんなクリスマスを過ごされましたか?
僕の元にも少なからず、クリスマスのミサのお誘いや、
いわゆるイベントの招待状を頂いたのですが、謹んでご辞退しました。
どうしてかというと……

今から書くことは、誰かを糾弾しているわけでも、
考えを押しつけているわけでもありません。
ただ、僕個人が、フェアリードクターとして感じていることをお話するだけです。

いわゆる妖精(良き隣人たち)と括られる存在は、
その多くが、キリスト教以前の、いわゆる土地神さまや、氏神さまたちです。
それがキリスト教が入ってきて、月と金星の女神イナンナは
72の魔神アスタロトとされたように、多くの古い神々が、魔族とされたり、
堕天使とされてしまいました。

もちろん、それは西欧諸国も同じですが、
幸いにも、アイルランドは聖パトリックの布教の仕方が特殊だった為、
多くの古い神々が妖精として残されました。
とはいえ、地獄に落ちるほどは悪くもなくで、
さりとて天に還るには良くもない堕天使としてですが……

それについて思うことはあるか、と聞かれると、もちろん幾らかありますが、
同時に、これは仕方のないことだと思っています。

家電製品を売るとき、今使っているものよりも性能が良くて
電気代がお得ですよ! と喧伝するように、宗教も同じく、
古いものを邪教としたり、古来からの神より自分たちの神はより強い! 
と仕立てるのは世の常なのですから。
(だから、お話の中で、隣人たちが自分たちは最後の審判の時、
天に昇れるか気にするという状況が生まれるんですね)

僕はクリスマスの雰囲気とか、街ゆく人が幸せそうにしているのは、
何とも言えず大好きなのですが、それでも、
妖精博士として、誰よりも隣人たちの傍にいることを標榜と掲げている身としては、
一緒になって祝うわけにはいけないなぁと思うのです。
より古い存在、より根源に近い方を選んでいこうと決めた僕なので。

もちろん、クリスマスの原型になった冬至(ユール)のお祝いは、
柚湯南京ではないけれどシッカリとしましたよ♪

クリスマスツリーの原型は、冬至の頃、どうしても空が暗くなり、
気持ちまでふさぎ込んでしまうのを避ける為に、
常緑樹を家に持ち込み、その緑と芳香で気持ちを引き締めた、
というのが最初と言われています。

冬、健気に、したたかに咲いている路傍の花や、
風雪に耐えて活き活きとした緑を保つ木々を見ると、
背筋がスッとして、ああ、命が流れているなぁと思います。

大晦日、新年と、行事ラッシュです。
そして、2月のインボルグ。春の先駆けを告げる祝祭まで、
巣ごもりの季節はもう少し続きます。

皆さんは、どんな年越し、巣ごもりにしますか?

2016年12月23日 (金)

補講。

先だってのアトリエローゼンホルツさんでの妖精学講座。
そこで出た質問で

「妖精学は魔法学なんですか?」

との質問がありました。
実はこの質問、よく出るのですが、時間に限りが有る授業では、
あまりそこだけを突っ込んでお話しすることが出来ません。

なので、今日はそれについて少しお話しようかと思います。

妖精学とは、妖精たちについて多角的に検証し、その実像を追う学問です。
人の営みを、経済活動の面から分析するのが経済学、
文化、風俗の面から捉えるのが民俗(族)学であるように、
妖精学も、彼らをどの方面から捉えようとするかで、
(彼らを追うという)同じ道でも、ずいぶん様子が違ってきます。

日本の妖精学の大家・井村君江女史は、文学の方面から彼らを追いかけています。
著作を読むと、シェイクスピアやチョーサーなどへの造詣の深さが伺えます。

またグリム兄弟や、ジェイコブスなどは、膨大な民話を収集し編纂。
彼らのお陰で僕たちは今でも各国の妖精譚が読めるわけです。

おそらく、この文学や物語からの妖精研究というのが、
1番メジャーなのかも知れません。

ですが、文学的なものばかりではなく、イエイツ、ダグラスハイドなどは、
フィールドワークなどから得られた妖精譚を基にたくさんの著作を残しました。
それらは、物語というよりも、民俗学の論文としても読み応えのあるものです。

それとは別に、ロバートカークのように、妖精を実在する霊的な存在として捉え、
怪著「エルフ、フォーン、秘密の王国」を現しました。

また、半ば伝説化している錬金術師でもあり医師でもあったパラケルススも
「妖精の書」として、四大元素の精霊の論文を発表しています。

これらはすべて、妖精学の範疇に入るものです。
切り口、アプローチが違うだけで、すべて彼らのことを捉えよう、
追いかけようとしているのです。

もちろん、文学的、民俗学的な側面を追いかけている方が、
アカデミックで、より一般に分かりやすく見えるでしょう。

けれど、それ以外の魔法学、神秘学などに散見される彼らをお座なりにし、
否定したり、研究に値しないとすれば、
それは完全なものにならないと僕は思うのです。

もちろん、好き好きはありますし、選ぶのは読み手です。

けれど、僕はフェアリードクターとして、彼らを捉えて深めている。
ですから、これからも民俗学と平行して
魔法学、神秘学などに軸足を置いていくでしょう。

僕というレンズを通した世界には、良き隣人たちは、
しっかりと存在し、踊り、花影、月影に垣間見えています。
みなさんが、風が抜ける木立に木々の囁きを感じるように、
僕はドリュアスの歌を、流れるせせらぎに、水霊の呼び声を聞くのです。

それは、僕の言葉に誰もが耳を貸してくれなくなっても、
変わらないことなのです。

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2016年12月16日 (金)

大好きです。

僕は本当に本当に彼らのことが大好きです。
それは家族への気持ちよりも、アイルランドへの郷愁よりも強くて、
日がな一日、彼らのことばかり考えています。

弾いているハープだって、彼らに関係した曲しか弾きたくないし、
物語だって、漫画だって、彼らが登場するもの以外、殆ど読んでいません。

じゃあ、専門バカというか、偏っているかというと、
実は案外そうではないようで、彼らのことを知るには、
神話学、魔法学、民俗学、形而上学など裾野は広く、
今、月信仰と樹木信仰についての考察の資料を読んでいます。

つまり僕は、彼らを通して世界を見ているのです。

昔から、川底で自然に穴の開いた石を覗けば彼らが見えると謂いますが、
僕にはそのメガネが両目にかかっているのかも知れません。

月の出に合わせて外に出れば、
さざんかの花びらの上に座る彼らが。
木立を揺らす冬将軍のしもべに、柔らかな毛皮に包まれたこぶしの蕾に宿る光。

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僕は一生、このメガネを外すことはないでしょう。

明日は、国立での、今年最後のお話会です。

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12月17日

冬至のお話会

国立・GalleryCafe Pupu

冬極まる冬至の頃
一緒に冬の妖精郷を旅しませんか?

               

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12:30 開場
13:00~ランチ(お茶セットの方は、いらっしゃり次第随時提供)
14:00~ お話しスタート(途中休憩あり)
                  

参加費 
ランチセット(飲物付きデザートセット)+お話し会:3,500円
お茶セット(デザートセット)+お話し会   :2,800円

お問い合わせ、お申し込みは
GalleryCafe Pupuさんまで

◇          

12月22日
フェアリードクターカフェ

市川・アトリエ・ローゼンホルツ

恒例になりつつアトリエでのフェアリードクターカフェ。
その中で妖精学講座を開催します。

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9月29日(木)  1回 妖精学概論                           

10月20日(木) 2回 フェアリー 
      
11月24日(木) 3回 エルフ、ニンフ、人魚
12月22日(木) 4回 総括
 
                                                

簡単なレジュメなども用意しますが、
基本はいつものように問われ語り形式です。
何が飛び出すかは参加してくれる方によって変わります。
ぜひ、この機会に彼らのことをより深く知ってみませんか?
               
いずれも14時~15時
席料1,500円(お茶付き)

お申し込み、お問い合わせは、
ローゼンホルツさんまで

2016年12月15日 (木)

月の魔法と筋肉。

昨夜は、今年最後の望月でしたね。
折しも東亰では雨上がりの宵で、空気も洗われ空が月光で充ち満ちていました。
その月の出に多くの人が驚きと感動を覚えていたようで、
写真投稿サイトなどでもたくさんの名月が上がっていました。

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凄まじい魔力圧縮ですねfullmoon shine

いまでは月齢のサイクルを、食事や運動、園芸などを指針にする人も増えました。
ムーンカレンダーなども、もう当たり前のようにこの時季、売られています。

そもそも月というのは、丘の陽気な彼らにとって、とても大切なもので、
月の満ち欠けにあわせて行動が変化します。

1番有名なのは、満月の下でのダンスでしょうか。
もう月下で彼らがやることと言えば、これ一択と言っても良いくらいです。

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日本では、そういう時には、化け狸が、荒寺の庭で腹鼓を打つとか言います。
イメージこそ妖精とは行きませんが、僕からすると、彼らも立派にその仲間です。

かくいう僕も、身体の調子とか、心の動きで月齢を察することがあるので、
存外化け狸の仲間かも知れませんね。←以前、白狐!?と言われたことがある

よく、月が満ちていくときは、栄養素が吸収されやすいので暴食に注意し、
ダイエットは、月が欠けていくときに……と言いますが、
僕は、月が満ちるときは、栄養がたくさん筋肉に行きますように、
欠けていくときは、脂肪が落ちますように……とお願いしていたりします。

いやぁ、語りって体力勝負ですから。

てなわけで、今日のタイトルは大好きな漫画女の友情と筋肉のパロディでした♪

2016年12月 1日 (木)

小さき人たちへ思う。

Facebookとブログを併用しいると、
どうにも短く写真だけポンとアップ出来るFacebookが、
投稿数では勝ってしまいますね。
ブログはやっぱり読み物でもがあるから、しっかりしたこと書きたいし……。

というわけで、たまには、妖精博士っぽいことを書こうかな、と思います。
語りとはまた別の、ちょっとオカルトチックな話なので、
苦手な方は、引き返してくださいませ。

さてはて。
僕の中で良き隣人たちは、実は2タイプ存在しています。

ひとつは、お話の中に登場する存在。
もうひとつは、いわゆる第2の視覚を持った人たちが見ている彼ら。

この2つは、厳然とした違いがあって、それをごちゃ混ぜにすると、
曖昧模糊とした彼らがさらに霧の向こうに遠ざかっていきます。

お話に出てくる彼らは、確かに後者がベースになっていたり、
誰かの実(妖精)体験を伝えるものも多々ありますが、
基本は、キャラクター化されたもので、創作物といっても過言ではありません。

そして後者の第2の視覚を持つ人(シーアと呼ばれることも)が垣間見る彼ら。
それが真実かどうか、良き隣人たちをどういう枠で捕らえているか、
などは様々ですが、こちらは、心霊体験と読んでも差し支えがなく、
その殆どが、某かの自然霊だったりすることが多いです。

前者はキャラクターか化れていますから、
その容姿や服装が克明に描写されています。

しかし後者は、まさにベールがかかっていて、半透明だったり
光の靄のようなものが、人型に見えている……という場合も多いです。

もちろん、体験型の物語も多くあるので、この両者は互いに混じり合い
時に、どっち? と首をひねることもあります。

でも、このふたつのどちらにも共通しているのは、
彼らを目撃した、出会った、というのは、
偶然(この世に偶然はありませんが)が折重なり合い、
あちらとこちらの境界線が虚ろになった時という条件が伴っています。
(後者の場合は、より見えやすいという意味合いになります)

では、それはいつなのか。
圧倒的に多いのは、やはり夕方。
日本でも夕方、黄昏時などは逢う魔が時と言って、魔に出遭う刻限とされています。
次は、季節の移り変わる時、もしくは盛りを超えるその時。
夏至前夜、冬至前夜、そしてハロウィンや5月1日前夜など。
この辺りも、物語には多く登場する特別な時間です。

今では失われつつあることですが、こういう時候や刻限には
あまり出歩かず、家にいる方が良いとされていましたし、
もちろん、僕もあまりお勧めはしませんsweat01

お話を法螺話だ、作り物だという気は、当たり前ですが僕にはありません。
どのお話も、すべて本当にあったことだ、という前提で語っていますし、
僕にとって前者も後者も、どちらも良き隣人たちです。
もしかしたら、なにかの巡り合わせで、夕方の帰り道、
角を曲がったところで、妖精女王に出会すかもしれない。
もしそれが日本でなら、きっと彼女はヴィクトリア時代のドレスではなく
スッキリとした上品なスタイル(家庭画報的な)で、だと思いますがw

お話は感じ、楽しむものです。
分類がどう、とか、出典は、とか、そういうのももちろん大事ですが、
まずは楽しんで、出てくる登場人物のようにドキドキして欲しい。
そして、もしかしたら、自分も出会うことがあるかも……と感じて欲しい。

よく第2の視覚を持つ方や、魔術を諳んじている方が仰るのですが、
彼らやオーラ、霊などを見たいなら、瞑想やらなにやらの前に、
まずは、自分が視認しているよりも世界はもっと広いと信じることだ、言います。

信じていない、否定しているものは、そもそも見えない。

見えないモノをどうやって信じろと? という声が聞こえてきそうな
まるで禅問答じみた助言ですが、僕には、これが肝だと思います。
想像力、空想力なしには、どんなことも為しえないように、
彼らの姿も、ずっと分厚いベールの向こうだと思うのです。

こういう仕事をしていると、時々、

「どうやったら、彼らは見えますか!?」

と聞かれる時があります。

そういう時、僕は決まって、こう返します。

「まずはお話を楽しむ余裕を。
 そして彼らが訪れることの出来るスペースを、心の内に持ってください」

小さく、そして時に巨人かと思うほど大きい彼らは気まぐれで、
空気よりも軽い存在です。ほんの少しでも、気持ちに余裕が出来れば、
きっと彼らと出会うチャンスは訪れる、そう思っています。

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